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日常のあれこれ

さかのぼり記7

ゼミ展の初日でした。朝から講評だったので10時の時点で全員搬入は終わっていて、じゃんけんで勝ったので一番最初にプレゼンをしました。
展示に用意した作品は、ゼミ展のために制作した"何かを撮影している人を撮影する"というコンセプトの「リバース」をメインとして壁面に吊るし、その他個人制作物として初めて一眼レフを意識して持ち歩いて撮った時の写真をまとめた「at the sea」と、祖父の葬式の時の写真をまとめた「記憶」の全部で3点で、前者はカルトナージュを用いて作った箱に入れ、後者は展示台にばらけさせて置いて展示した。一緒にメモ帳を置いてコメントを残せるようにしたところ、何人か書き残してくれた人がいて、内部展だとしてもやはり前向きに見てもらいたいと思って展示をしていたので嬉しかった。本当に見に来ていただいたかたありがとうございました。


自分の中での写真制作は、何かコンセプトを決めて、それに即したスタジオや場所などで作り込んだものを撮る、という意識が強く、個人制作物というかそうでない写真は自分にとって記録としての側面が強いため作品にはならないのでは、と思っていたのだが、なかなか展示をする機会もないし、ものを見せることに慣れなければと思い、内部関係者の多い場所というのもあったので今までに撮りためたものも展示してみた。
ゼミ展用の写真は何をしていいかまったくわからなくて、諦めて教授が見たいと言っていたテーマに決めてそれだけに集中する、ということに決めていたので、やりたかろうがやりたくなかろうが嫌でもそれをこなす必要があり、完全に惰性で進めていた。カメラを構える人の多そうな場所に行き、被写体の大小問わずシャッターをきりまくり、枚数増やしてトリミングして出力してパネル貼り。最初はつまらないつまらないと思いながらやってはいたものの、段々と枚数揃ってくるとなんだか図鑑のような見え方もしてきて、短い期間で続けてみればそれはそれでまた新しい見え方もするもんだなとぼんやり思った。知らない人たちがみんな何かに向けてカメラを構える姿は写真というよりデータだった。


個人制作の写真は、元はブックにして展示するつもりだったのだけど、スケジュールが間に合わないのと、ブック形式にした時の固いかんじや写真のレイアウトに影響されそうなところが気になってしまい、どちらかというと気軽な気持ちで「こんなこともやってるんですよ」というのがわかってもらえたらという部分が強かったので、1枚1枚バラで出力し、平等に見れるようにした。「at the sea」は箱に入れてひとつの作品として、「記憶」はそれぞれを同じ場所に並べてながめてもらって、気になるものがあれば手にとれるような、こんなこともあったと思えるような見方ができるよう机上にバラバラに散らしておいた。両方ともこちらから指示せずとも狙った通りの見方を見学者の人たちがしてくれたので展示の仕方は成功したのかなと思う。
「at the sea」はどうしても何かのタイミングでひとつにまとめたかった。2年前のものではあるが、自分が写真を撮りだすようになったきっかけの出来事であったので思い入れが深い撮影で、ずっと写真集や何かのかたちにして手にとれるかたちにしておきたかった。いろいろな事情で箱を作ってそれに入れて展示することにしたのだけど、入り込みやすいモチーフだからなのか割と好評だった。欲しいとさえ言ってくれる人もいた。ありがたいことと思う。
「記憶」は自分にとっては完全にその日の出来事の記録でしかなかったのだけど、初めて自分の身近な人が亡くなって、それの最初から最後までを立ち会ったことがとても非日常的で、悲しいのに悲しすぎるということもなく、本当に不思議な空気が流れていたこと、こういうものを作品としてまとめたら作品にもなるのかな、という気持ちでまとめてみた。データとモノとの力の差ってやっぱりあるというか、その日の空気だとかそういうものがふわっとよみがえるかんじは少なくともあった。外に出してみて良かったなと思う。


今回の展示において、教授と現代写真論の講師の方(ギャラリスト)といつもお世話になっている先輩の3人にだけコンセプトを丸ごとすべて話したのだけど、話そうが話すまいが自分の楽しんで撮ったものと惰性で撮ったものとには絶対に差が出ること、作り手の意識が事情を知らない見る側にもわかられてしまうのだなということを強く感じた。ギャラリストの講師の方が個人制作のほうを見て「ゼミ展用のは完全に作業に見える、こっちのが見ていて楽しい、こういう風に撮っていけばいいのに」と言っていたのが決定打で、やっぱりそういうのってばれちゃうんだな、と。ただまだ個人の記録を作品としてどう取り扱えば良いのかわからない。自分のやりたいことと学校で出さなければならない制作物とがどこかで交われればいいね、というようなことを言われた。それ以前にそのふたつが交わるのか並行していくものなのかがわかるといいねと、どうせやるなら楽しいことじゃないと続かないよ、というのが教授の言葉。卒制とかでもその辺がよくある壁らしい。やりたくないことやってもだめになるんだから、写真は手段でしかないんだということを考えて、やりたいことをやれと、だから今やってみたいことが少なからずあるならそれに取りかかったらいいと言っていた。
印象的だったのは、どういうことがやりたいのかと問われて「見ちゃいけないようなものを見ているような気分になるもの、いかがわしいかんじのものが撮りたい、派手できらびやかなことをしたい」というようなことを言ったら、「なんだかそれは無理しているように見える」と言われたこと、制作と個人の記録が結びつかないことを話したら「写真に対して誠実なんだね」と言われたこと。どちらも予想外のことを言われたのでとても驚いた。無理をしているつもりはなかったし、誠実というより柔軟性のない頑固な考えで意地張ってるだけという感覚でいたので。「無理しているように見える」のは、「記憶」の写真たちから感じるものがとても柔らかでさらりとしていたから、それがきっとあなたのやりたいことなんじゃないかということからそう思われたそうで、自分が気付かないだけで無意識下で反発して無理に派手さを求めたりしているのかしら、などと考えだしたらまたよくわからなくなった。誠実という言葉には恐れ多くて素直に受け取れなかった。もはやプラスの言葉を意地でも拒絶する、みたいな気持ちさえあってどうしたものかと思う。
しかしながらつらい制作期間であった。やりたくなさすぎてどうにかなりそうだったけど、最終の5日間くらいで目標決めてやるという相変わらずの追い込み作業をした。もっと思考を言語化して外に出さなければいけないと思う。何がしたいのかわかる必要がある。でも頭で考えていることを実体にしてみないとわからないことが本当にたくさんあるので、もっと手を動かす癖をつけなければなと思う。フィルムの写真なんてきっと来年は格段に撮ること減るだろうし。やりたいことは忘れないうちにメモする習慣をつけたいと思う。プライドを少しでも抑える。見てもらう意識。
長い。おつかれさまでした。