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日常のあれこれ

やけに原爆の話を耳にすると思ったらそうか明日は平和祈念式典ですね
確か去年は大学に入って出会った広島の子の話を聞いたのと、あと原爆投下の時間かそれにほど近い時間のニュースを見たことで、広島の原爆って言ってるほど気にしてなかったけど、実際はこういうことしてるんだね、すごいね、みたいな感動をした気がする
なかなか鮮明にその時のこと覚えてるから、結構印象強かったんだと思うなー


そして今年も式典を迎えるわけですが
なんでしょうね。この気持ち。なんとも思わない。興味がないというか関係ないというか。
この感覚は先日の金賢姫元死刑囚が来日して、拉致被害者遺族の方が会見で涙しながら娘はなんちゃらで・・・みたいなのを話しているのを見ていたときと同じ。
何やってんだろうこの人たち?みたいな、なるほどそうですか、で?みたいな
言ってることは理解できるけどそれであなたがたはどうするんですか?みたいな気持ちになる
それはその人たちの活動を批判してのことではなく、だから原爆賛成なんて思ってないし、拉致被害者の人は帰って来れると良いねとは思う
それなのにこれらの報道を耳にすると毎度毎度違和感を覚えるようになったのはなんでだろうか
なんか不祥事とか起こしたときの偉い人の謝罪会見で、この度はご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでしたって立ち上がってペコってする一連のテンプレ的流れを見てるかのような既視感というか
自分が知らない間にも毎日関係者の人々は水面下で活動をしていることはわかっているし、活動を始めた当時から見れば一歩一歩解決にむけて進んでいることも理解できる。それについて批判的な気持ちはもちろんない
でもなにか違うと思ってしまうんだよなあ
きっと活動の一端を目の当たりにするのがこういう時期だけしかないからというのはあるかもしれない
毎年同じ時期に原爆の話をし、忘れてはならないですねと確認して、式典を開き黙祷を捧げ、ではまた来年この時期になったら話しましょう、みたいな
それって意味あるのかしら?
全ての人の同意や賛同を得たりすることって難しいし不可能に近いものはあるけれど、仮にも国を挙げて提唱しているようなことなら、もっと頻繁に口にしたり、意識にとどめておいたりするべきではないの
今日明日だけこういうサイトがあるから参加してみましたーとか、この文見てなにか感じてほしいなとか、今の時代に生きるわたしたちはうんたらかんたらとか、そういうのじゃなくて(否定ばっかしてる割に案は思い浮かばないのだけど)


一番影響力あるのって実際の被災者の生の声なのかなあ
でもその被災者の方々もそのうちいなくなってしまうことを考えると、その生の声をもっと広く伝えるべく運動をしなければならなくなるよね
というより今からそれをするべきなのではないかしら?
広島県民の人と他県の人との原爆に対する意識の差ってかなり開いてるし。ああでもそんなこと言ったらどんなものでもそうか
わたしだって今日明日くらいでしかこのこと考えないし
1年の中で、決まったこの日に、それぞれで原爆のこと考える機会を設けるってだけでも、式典とか報道とかは意味のあるものなのでしょうね
そしてわたしは明日のあの時間、今のところ平和な世界に身を委ねて惰眠を貪っているのであろう
それだけでも十分ではないですか、そんなことないですねすいません