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日常のあれこれ

なんとなく高校の時の日記を読み返してみたら、今より考え方の基盤がしっかりしていて呆然とした

山本文緒のファースト・プライオリティの『当事者』という話が好きで、それの台詞で「当事者じゃない人はその人の分まで苦しむ必要はないんだよ」みたいな台詞があって、まわりで自分含め憂鬱な人増えたけど、相談された人が相談されたことに対して苦しむ必要はないんじゃないかなって書いてた
相談されてる側はフーンそうなんだくらいで良いと思う、って
本当にその通りなんだけどねえ
今のわたしはどうかというと、相談したり愚痴ったりすることで気が晴れることってかなりあって、むしろ話すことですっきりしてる部分が大きかったりする
でも自分がすごいショック受けてぐちゃぐちゃになって友達にぼろぼろ言葉をこぼした時に、その友達の経験として「聞きたくないことまで聞かされてつらい気持ちになることがある」ということを聞いて、自分の苦しみを軽減する為に他人に全部苦悩を垂れ流して、それで自分は楽になるかもしれないけれど、逆に聞いてくれた他人に負担が増えることがあるってことに気付いて、それって良くないことなんじゃないかと思い始めた
それが最近の話


自分に関してだと、うわさ話とかで先を促すと解答をしぶるパターンの会話(なになに教えて、えーエヘヘヘみたいな)で結構ゴリ押しすると教えてくれたりすることって多々あるけど、そうするのをやめたのが多分この日記を書いたくらいの頃なんじゃないかと
というのも当時恋愛系の話でまわりではこういう展開になることが多くて、特に恋愛事の話って聞いててどうでも良かったり、逆に聞かなきゃ良かったとすら思うような話がいっぱいある
そこでわたしは、軽く聞いてみて簡単に話したがらないような内容なら、自分からわざわざ首突っ込んでも下手したらこっちに負担がかかる可能性もあるし、話したくなれば話しにくるだろうということで聞くことをやめるようにしたのでした
そしたらいろいろ周りのこと興味なくなってきて、なんかどうでもいいかな?ってかんじになって、それが良い方向に転がって「話したいけど話したくないけどでも意見が欲しいわけじゃないけどでも誰かに聞いてほしい、みたいな時はこいけさん」っていうなんとも妙なポジションをゲットしたわけだ
その時はこのポジション誰に需要あんだよwってすごーーーく思ってたけど、自分で言うのもなんだけどこのポジションの人ってなかなかいないんじゃないかな、とか
今の自分は他人に心のうちを垂れ流すことが容易にはできなくなってきていて、でもやっぱり話すことで気持ちの整理つけてるところがまだまだあって、でも話せない、話したい、ああ誰か聞いてくれれば良いのにってずっと思ってて、そういう時に『他人にとっての自分』のような存在がいればなあと思ったりする
いたところで本当に話せるかどうかはわからないけどさ。


高2の時の自分は、相談されて負担になる側のことを今の自分みたいな視点では考えたことなかったんだろうなあ
でもそのほうが生きやすいよなあ
なんにせよ他人の思考を読み取ることはできないわけだし。
3年経った今、もう少し芯の部分しっかりしてても良いはずなのに、これじゃ退化してるみたいだ


信頼と甘えってどう違うのかな、とか頻繁に考える
甘えと依存もあやふや
自分が欲しいのは多分依存できる存在
でも依存なんかしてしまったら多分一人で生きていけなくなってしまうね
もっと自分のこと認めていかないとね
はー